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旅雑記

約60年前、ジャングルを切り拓いて南米に移住した日本人達。(コロニアオキナワ&コロニアサンフアン訪問記)

2011/02/02   Gallery

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1月下旬、南米のボリビアという国がある。
その国の東側に栄える都市サンタクルス。
首都ラパスからバスで揺られること16時間。
僕はそこに来ていた。

友人から紹介されたボリビア人の方々とご飯を食べたり、
日本食品店を営む方とお逢いしたり、
アルパカ生地の衣類のデザイン及び輸入業を営む方にお逢いしたりと。

そしてサンタクルス近郊に、とても気になる存在があった。
それはボリビアに在るという日本人移住地だった。

ここサンタクルスの近くに2箇所あるという。
“コロニア オキナワ”(沖縄からの移住者が中心)
“コロニア サンフアン”(九州からの移住者が中心)

一体そこにはどんな人達がいて、どんな生活があるのか。
僕はこの2つの場所を訪れることにした。

まずはコロニアオキナワを訪ねてみた。
※サンタクルスからの行き方ですが、
旧バスターミナル(テルミナル・デ・アンティグア)までタクシーで向かう。
そこから、トゥルフィーというボリビアの乗り物に乗る。
(いわゆる乗り合いタクシーです。人数が揃ったら出発するタイプの類)
トゥルフィーの行き先は色々と分かれているのだけれど、
コロニアオキナワに行くには、”モンテーロ”行きに乗ります。
僕の場合は片道8ボリビアペソ(96円)でした。50分程度。
モンテーロに着くと、コロニアオキナワまで同じく別のトゥルフィーです。
これも片道8ボリビアペソでした。これも50分程度。

コロニアオキナワの入口にはゲートのようなものがあり、
そこには大きく、『めんそーれ オキナワ』と書いてあった。

僕は我が目を疑いつつも、ここが本当に日本人の移住地なのかと…。
そして、トゥルフィーの運転手が「着いたぞ。」というので降りる。
が・・・そこはよくわからない場所。

中南米だと大体中心地は広場になっていて、
教会があって・・・というのが基本なのだけれど、
ここはどうやらそういう街の作りにはなっていないようだった。

大通りでとりあえず降ろされたものの、どこがどうだか地図も無いのでわからない自分。
まずは噂に聞いている『移住歴史館(博物館?)』たるものを探すことに。

近くにいるボリビア人に「どこ?」と尋ねると「あっち」と教えてくれる。
ここがどうやら紛れもなくコロニアオキナワのようだ。

しかし、日本人の影は何処に・・・?
と思っていた矢先、向かい側から歩いてきた女子4人組。
その4人組の容姿は正しく日本人そのものじゃないか・・・!

日本語で声を掛けると、「こんにちわ。」と返してくれた。
まさに日本語。そう、やはりここは日本人移住地なのだ。

女の子たちは丁寧に移住歴史館の道を案内してくれたのだけれど、
悲劇なことに土日は休館日のようでした…。行こうと思っている人は気をつけて。

仕方が無いので、外観だけ見学をして、
街(規模的には村?)をぶらぶら歩く。

そろそろ時間帯がお昼なので、日本食レストランが無いかなと村の人に尋ねてみると、1軒情報をゲット。

早速行ってみることに。
メニューには”とんかつ”、”しょうが焼き定食”、”焼きそば”等が並んでいる。
渋谷の会社で仕事をしていたときには、お昼はよくしょうが焼き定食を食べていたので、懐かしくなり注文!20ボリビアペソ(240円)でした。

味は美味しい!
味噌汁は完璧に日本の味!間違いない!ここは日本!
本棚に置いてある2年前ぐらいの少年ジャンプを読みつつ、完食。

その後、村ですれ違う人達とは日本語で挨拶。
「どうも~」「こんにちわ~」と。

しかし、話で聞いていた以上に日本人(日系人)はそんなに見掛けない。
ボリビア人のほうが多い印象がある。

そんなこんなで大通りに面する小さなお店があり、
そこでアイスを購入して、店長らしきお婆さんと話し込む。

どうやらそのお婆さんは日系1世(いわゆる日本から直接の移住者)のようで、
50年以上前に沖縄から移住してきたとのこと。

お婆さんに色々と話を聞いた。
今はもう300人ぐらいしか日系人は住んでいないこと。
コロニアサンフアンの方が規模が大きいとのこと。
サンフアンには7-800人ぐらい住んでいるそうな。

週に数名来る日本からの旅行者の格好が”ザ・旅人”のような日本人らしからぬ服装で来るため、
コロニアオキナワで育った日系人の子供たちが
「日本人って皆、ああいう格好するの?」と毎度疑問を抱くようで、困っているそうです(笑)。

色々と話を聞いた後に、
歴史館などが休館日の為にこれ以上居てもやることが無い状態となる…。
村の人達と話すも良いけれど、コロニアサンフアンの方にも行ってみたかったので、そっちに移動することに。

コロニアオキナワから再びモンテーロまで戻る。
そうすると同じようにトゥルフィーで”ヤパカニ”行きを探す。
ヤパカニまでは10ボリビアペソ。ヤパカニまで1時間程度。
ヤパカニに到着して、そこからサンフアン行きのトゥルフィー。
片道4ボリビアペソで25分程度。

サンフアン行きのトゥルフィーに乗車するときに日本人らしい人と乗り合わせる。
声を掛けると、JICAの青年海外協力隊でサンフアンに来ている隊員でした。
サンフアンは日系人が800人ぐらいいて、後はボリビア人とのこと。

彼にサンフアンに安宿があるかと尋ねると、
「ボリビア人がやってる安宿はあるのだけど、多分営業をしていない。だから●●さん宅に泊まったらいいよ。きっと面倒みてくれるよ。」と。

突込みどころとしては、営業していない安宿である。なぜ!?
ちなみに一応、安宿に行って経営者らしき人に泊まれるか聞くと、無理だと回答される・・・部屋沢山あるのに・・・なぜ!?

そしてその●●さんの家にお世話になるにしても、流石に突然過ぎる・・・!
と思いつつも、他に宿もなければ身寄りもない為、協力隊員の彼の一声により、
彼に付き添って頂きつつ●●さん宅に訪問。

そうすると●●家のお母さんが現れて、2つ返事でオッケーを出してくれた。
どうやら旅行者が来るといつも受け入れて面倒を見てくれるのだそうです。
本当に有り難い限り…。
その懐広すぎる対応に感激しつつ、お母さんからも色々な話しを伺いました。

●●家のお母さんは約50年前に第16次移民として、ボリビアの地にやってきたそうです。
当時の日本は戦後間もない頃で、日本で一旗あげるよりも、
海外の土地に出向いて一旗あげる方が、夢を感じることが出来たようです。

そして、●●家のお母さんの両親が一旗あげようとボリビアへ移住を決めて、
娘である●●家のお母さんも強制的に同伴したそうです。
出発前の両親の会話で「ジャングルを切り拓いて…~」という会話が頻繁に聞こえてきて、
これから自分は何処へ行くのだろうと当時小学1年生だったらしいのですが、
不安を憶えることもあったそうです。
(僕ならビビって震えているかもしれません…。)

船は西回りと東回りの2つのルートがあったそうです。
東回りは約1ヶ月という期間で南米へ到着するルートで、
西回りは約2ヶ月間という期間で南米へ到着するルート。
●●さん達は西回りルートだったそうです。
船の中で、急性盲腸になった人がいて、緊急手術が必要だったのに、
そこにいた医者は手術が人生初のオランダ人の医者だったとかで、
かなり波乱万丈な船旅だったそうです。今では中々有り得ないことでしょう。

無事にボリビアに到着したものの、両親が急激に体調不良となり、
到着後数年にて、両親が働けない状況となり、兄弟で支えあって暮らしてきたとのことでした。
全く見知らぬ土地を切り拓いて、そこに集落をつくり、農地をつくり、
現地のボリビア人と協力しながら暮らしをつくる。

間違いなく簡単なことではありません。
水害、病害、多くの苦難が在ったようです。
しかし、それらを乗り越えて50年以上前に彼らはやってのけました。
本当に凄いことなんだと素直に思います。

お邪魔した初日に、たまたま青年会の総会があるとのことで、
見学者として参加させて頂きました。
サンフアンにいる若者が50名~70名ほどが集まりました。
(高校卒業~20代の青年達(未婚)とのことです。)

青年会は日本でも存在する組織名です。
僕の宮城の実家の町にも青年会は在ります。
ここボリビアの地でも、同様に活動しているようです。

総会の内容は、
昨年の活動の振り返り、昨年の収支報告、新年の活動スケジュール、新年の予算案、新役員発表などでした。

今年の活動内容の主な行事内容ですが、
・成人ダンスパーティ
・参加型ワークショップ(青年会の未来について)
・カーニバル
・盆踊り
・運動会
・地区対抗サッカー、野球
・青年キャンプ
・卓球大会
・バレーボール大会
・ハロウィン仮装パーティ

などなど・・・日本でも全く同じようなことが行われていますよね。
まさしく彼らは日本人そのものの生活をしているのです。

そして、サンフアンの為に何かしたいという声があがったりと、
地元貢献意識の高い若者もおりました。

今、サンフアンでは日本社会ど同様に高齢化社会が訪れており、
これをどう乗り越えるかは1つの課題ではあるようです。
人件費の安価なボリビア人を家政婦として雇用できるなど、恵まれた条件部分もあるようですが…。

青年会の総会の後は、飲み会が行われました。
飲み会にも参加させて頂き、その後の二次会のカラオケにも参加させて貰いました…。
日本を離れてから初めてのカラオケが、
まさかの南米ボリビアの地だとは思いもしませんでした。

ボリビアで生まれ育った日本人(日系人)の皆がどんな選曲をするのかなと思ったら、完全に日本の若者の選曲でした。
GReeeeN、中島美嘉、SMAP、Kiroro・・・
日本に住む若者が唄う曲と何ら変わりありません。
むしろ、最近疎くなってる僕よりも詳しい…。

正直僕は、日本で生まれ育った人と、ボリビアで生まれ育った人とでは、
何処か異なる部分があるんじゃないかと思っていましたが、
3日間、僕がお世話になった間では、そういったモノはほぼ感じることが有りませんでした。
(詳しい人が言うには深い部分ではボリビア文化の影響があると言う人もいましたが。)

皆、当たり前のように日本語を使い、NHKを見て、インターネットで日本のことを知り、
日本食をいつも食べている日本人なのです。

僕は滞在3日目には、
「ここ、南米だっけ?なんだか僕の実家みたい。。。」

と錯覚を起こすほどでした。

お世話になったお家の娘さんと話し込みました。
彼女はもう成人していて、立派な大人。

僕は思い切って質問してみました。
「自分が日本人なのか、ボリビア人なのか、どっちかと言えば、どっちだと思う?」
と。

そして彼女は「どちらかと言えばボリビア人かな。」と答えました。

日本には少しだけ来たことがあるそうですが、
生まれも育ちもボリビアな彼女はそう答えてくれました。
今考えると、僕の質問自体もナンセンスだなと。
彼女は寄りなだけであって、やはり日本人でもあるのだと思う。

僕は南米にきて、そんなに多くはないけれど何人かの日系人の方々に出逢った。
これからチリ、アルゼンチン、ブラジルとまだまだ出逢うことでしょう。

そして疑問に感じるのは、どうして僕は日本で生まれ育って25年、
まともに日系人の人達と交流する機会が無かったのだろうかということ。

ペルーで厚生労働省の人がきて、”日本における日系人の労働状況について”というセミナーをしてくれたので、大方イメージは掴んだものの、それにしても少なすぎるんじゃないかと。

彼らは海外に飛び出た日本人の子孫。
その彼らが日本人ともっと交流出来たり、日本で暮らしやすい環境をつくることは、
日本人が今後より一層海外に出やすくなる土壌をつくることにも繋がることになるはず。

関わりの無い人達ではなく、彼らは日本人の子孫なのだから、
もっと日本人は積極的に関わるべきなのではないかと思う。
(※しかしながら、日系人とは言え、人によって日本語や日本文化の理解度に違いがあるのも事実…。)

3日間の日本人集落の訪問でしたが、
色々と考える良いキッカケとなりました。

約60年前の戦後まもない時代に、
まさに先駆者たちがジャングルを切り拓いて定住した土地。
日本人旅行者の皆さん、機会を創って是非訪問してみてください。

日本にいる皆さんは、時間を創って日系人の歴史などを学んでみてください。
そして、日本に来ている日系人と積極的に交流してみてください。
僕も帰国したら自分にできることを探ってみたいと思います。

取り急ぎ、書き殴りな記事ですが、
忘れぬように此処に残します。

【参考】
財団法人:海外日系人協会 http://www.jadesas.or.jp/
ウィキペディア:日系人 http://goo.gl/fgoJj

最後にサンフアンの様子、日本人移住資料館の写真等を貼り付けます。

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