(※画像は有名なチェルノブイリ事故によってゴーストタウン化した街にある観覧車。)
僕は今、ウクライナに来ています。スウェーデンから移動してきました。
そして2011年の9月18日にチェルノブイリ事故後の区域にいってきた、そのレポート等です。
最初に述べますが、僕は専門家でも無いですし、原子力等についてガッツリ学んだわけでもないです。
素人であり、ただの若者の戯言レポートとだと思って流し読みしてください。
皆さん、ウクライナという国名自体はあまり耳慣れないかもしれませんが、
旧ソ連圏の国のひとつで、1991年に独立を果たした国です。
地理的にはロシアの左下あたりにあります。
ウクライナの西側にはポーランドなど東欧諸国と繋がっています。
東側はロシアです。
ウクライナのWikipediaを見ると、ウクライナという国の厳しい歴史がみえてきます・・・。
さて、ウクライナに来た理由。
旅を始める前は、ウワサに名高い「世界有数の美女大国」の実態調査を目的にしていました。
・・・が、勿論今は異なります。
大震災が起こり、福島第一原発が制御不能になり、レベル7という最高危険度に陥りました。
過去に同じレベル7で事故が起きたのはここ、ウクライナにあるチェルノブイリ原発しかありません。
チェルノブイリ事故が起きたのは1986年の4月。
チェルノブイリ事故が起きた時、僕はまだオギャーオギャー泣き叫ぶ赤子でした。
当時のことは何一つ憶えてないです。世の中がどれほど騒ぎになったのかも知りません。
ただ、僕はひとりの日本人として、人間として、
チェルノブイリ事故のその後に興味関心を強く持ったので、ウクライナを訪れることに決めました。
そうしてウクライナに到着をして思ったのは、予想以上に発展していたことですね。
地下鉄が整備されていて、首都キエフの街中には3本の地下鉄が走っています。
10分待たずに次の地下鉄がやってくるので非常に交通は便利でした。
ただ、キリル文字表記なので、読み方も発音もサッパリ…。
来年、ウクライナでサッカーの欧州大会が行われるので、
その時までには色々と英語表記なども出て便利になることでしょう。
早速、ホステルにチェックインをして、チェルノブイリエリアへのツアーを調べる。
どうやら週末に行われているのか、僕が到着したのは水曜日なのだけれど、
そこから先だと、金土日の日程があると言われました。
ウクライナ滞在の予定を組みたいと思っていたので、水曜日はとりあえずツアーは申し込まず。
同じ宿にいたドイツ人の女の子と仲良くなるが、
彼女はウクライナにやってくる鉄道の中でウクライナ人と仲良くなったそうだ。
そしたら彼にはチェルノブイリに行くことはお薦めしないと言われたそうだ。
その影響もあり、ドイツ人の彼女は僕にも行かないほうがいいと薦める。
「今、チェルノブイリ原発を覆っているシェルター(石棺)は老朽化していて、いつ壊れるのかわからないのよ!放射線が漏れているかもしれないよ!」と。
実際、ウクライナ人は皆、チェルノブイリ区域には行かないそうだ。
好き者の観光客やジャーナリストや研究者ばかりが興味を持つそうだ。
確かにツアー中に朽ち果てて、放射線がドッカン来るリスクはあるが、それは呑み込もう。
そうして、自分なりに最近チェルノブイリに訪れた人のブログなどを確認しながら、
現在の放射線量なら問題ないと判断し、僕はツアーに参加することに決めた。
その為にウクライナに来たのだから。
ところが、木曜日になってツアーに申し込んだら、既に金土は満席とのこと。
驚いた。人気あるのか?と。
(ツアー自体は15人マックスのツアーだったので、そこまで需要はないようです。)
他に選択肢が無いので僕は日曜日のツアーに申し込んだ。
1日バスで巡るツアーで、160ドル支払った。高い。
これは金持ち先進国の人にしか支払うことができない金額・・・。
前日の土曜日に、ウクライナ人達とのフットサルに参加した為に、僕の両足は筋肉痛マックス。
朝起きて、8時45分に独立記念広場の前に集合。筋肉痛の足をひきずるように歩いた。
服装はできるだけ長袖長ズボンで、放射線の影響を受けないように。
見渡すと参加者が18名ぐらいいる。
あれ?15名じゃなかったんだろうか?
すると、ドイツ人3名は前金払ってオンラインで申し込んだらしいのだが、
実際にはツアーガイドは把握していないようで、「きいてないぞ。」とのことだった。
結局彼らは定員オーバーの為に参加できなかった。不運過ぎる…。
(※もし今後ツアー参加される方で、オンライン申し込みの方は要注意。)
僕らは15名だった。
偶然にも僕の他にもうひとり日本人の方がいた。
1週間の休暇でロシアとウクライナに旅行に来ているということだった。
僕よりも結構年上の方である。
滅多に合わない日本人旅行者との遭遇に驚きつつ、行動を共にさせて頂くことに。
他の参加者は、フランス人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人など、ほぼ先進国出身者だ。
それも当然、160ドルは先進国以外の人達が気軽に払える金額ではない。
ウクライナ政府は、それで良いと思っているのだろうか?
ウクライナ人の女性がひとり参加していたが、ドイツ人の付き添いだったようで、
お金はドイツ人が出していたのだろう。ウクライナ人の平均給与から考えると、
160ドルというのは日本人からすると5万円ぐらい、いやそれ以上の金額なのではないだろうか。
(※高学歴なウクライナ人の若者が国家公務員的仕事をしていて給与は月給7万円ぐらいだと言っていた。)
さて、時間が来たので、マイクロバスに乗り込む。
首都キエフからチェルノブイリエリアまでは片道2時間ちょっと。
その途中で、バス内にて『THE BATTLE OF CHERNOBYL』というドキュメンタリーを見せられた。
内容はチェルノブイリ事故発生から、何が起こって、どう時が進んでいったのかを細かに。
1時間強の放映時間でした。
さて、ここから先ですが、チェルノブイリ原発事故について、
実はよく知らないという人には是非、Wikipediaをチェックしてみて欲しいです。
チェルノブイリ事故後、今でも原発を中心として半径30キロ圏内は居住立入禁止区域となっていて、
それを通称ゾーンと呼んでいるそうです。
そのゾーンに入る時に、検問があり兵隊のチェックを受けます。
パスポートを出して、通り抜けます。驚いたことに荷物検査がありませんでした。
テロリストについては大丈夫なのか?とガイドに尋ねると、
「ウクライナをテロリストが襲うメリットが無いから大丈夫だ。」と即答された。
こうして何事もないように無事にゾーンの中に入り込む。
そうして、バスで幾つかのモニュメントを見ていく。
その中に消防士のモニュメントがあった。
彼らは事故発生直後、
炎上した現場を鎮火する為に何が起こっているのかも知らないまま突撃し、闘った消防士ということだった。
恐らく、彼らは相当量の被曝をしたのではないかと思われる。
尚、何人かは放射線量をチェックできるガイガーカウンターを手に持っていた。
時折、僕もその数値をみせてもらったのだけれど、ゾーン内とはいえ、至って問題ないような数値が表示されていた。
0.1-0.2マイクロシーベルト(h)ほどであった。
しかし、ガイドがバス運転手に指示をして、ある場所で立ち止まると、
ガイガーカウンターが異常な反応を示した。
車の中にいるのにガイガーカウンターは30マイクロシーベルト(h)を超えていた。
そこは、大量の放射線を浴びたことにより、森の色が赤く変わったと言われている、
通称レッドフォレストであった。尚、今は見た目は普通の森でした。
ただ、放射線は今でも強いようで、あそこには人は住めないなと思いました。
勿論、僕らは30秒ほどでその場を立ち去ったので、人体には影響が無いはずです。
通常、ガイドが支持した道や場所を行くのですが、
当然ながらそれらは安全がある程度保証されている場所です。
このゾーンの中で、既に放射線量が低いところのみ、僕らが入れるというわけです。
レッドフォレストのように放射線量が高いところには僕らは行けません。
僕が一度、少しだけ道の横の林に立ち入ろうとしたらガイドから、
「そっちは危ないからダメだ。」と指示が。
見た目では何もわからない・・・ガイガーカウンターが常時必要だと思いました。
僕らは万が一身体や持ち物に何かあっても、自己責任である旨を書類にサインをしてから参加している。
・・・自分の身は自分で守らなくてはならない。
その後、僕らはチェルノブイリ原発に近くにあり、事故後ゴーストタウンと化した街、プリピャチ市に訪れた。
事故前は48,000人が住んでいたその街は、事故が起きた後(36時間後?)に、
政府によって強制疎開となったそうだ。
ガイドの話によると、
住民は皆、「3日間したら街に戻ってくるので、パスポートと財布だけ持って退避しなさい」と言われたそうです。
が、実際問題、その後、しばらく彼らがその街に戻ることは出来なかったそうです。
そして今は極一分の人を除いて、一般の人はその街には住めないとされています。
25年間、人が住んでいない街には草木が生え放題。
事故後にソ連政府が除染ということで、建物内の家具等はすべて破壊し、外に放り出され処分されたそうです。
なので、建物内はただの瓦礫というか、廃墟でした。
また、明らかに演出っぽいと思えるような場所もいくつかありました。
聞くところによると、現在の石棺は老朽化していて、早く次の新シェルターを建築しなくてはいけないのだけれど、お金がなくて建築予算が厳しいという。
その為に全世界に対して、チェルノブイリ事故の悲惨さをあえてアピールをしているようにも見えました。
なぜなら、「そう見せたい。」というのがヒシヒシと伝わって来たからです。
あきらかに不自然なものが多くあったからです。
道端の人形や、横転したままのゴーカートとか。
まぁ、、ここでは大人の事情は置いておきましょう。
プリピャチ市を見学した後、いよいよ原子力発電所へ。
そこにはモニュメントがありました。
僕らは300メートル手前までは進むことが許されましたが、
流石にその先には入れないようです。
その後、作業員の人達が昼ごはんを食べているところで、
僕らもゴハンを食べて、最後に放射線量チェックを受ける。
ただ、オカシイ話が、放射線量チェックマシンを受けるのがセルフチェックだったんですよね。
係の人がついているわけでもなく、ツアー参加者が自分で勝手にチェックするという。
もし許容値を超えていても、スルーできちゃうじゃないですか・・・。
管理体制がズサンだなと。
その放射線量チェックを二箇所で受ける。どちらもセルフチェック。全員問題なし。
施設横に元気な野良猫がいた。愛くるしい猫だったけれど、触ることは遠慮した。
最後に検問を抜けて、これでツアーは終了である。
ツアー中にドイツ人に声を掛けられた。
「日本はフクシマの後、原発は辞める方針で決まらないのか?
ドイツはちょうどフクシマの2週間後に選挙があったこともあり、国民が原発反対をし、
政治家も受け入れて、国家として原発を辞める方針で動いているよ。
フランスからの電気供給も、いずれは止めて再生エネルギーに転換するつもりだ。
日本はどうなんだ?」
僕がなんと答えたかはご想像にお任せします。
あなたなら、どう答えますか?
チェルノブイル原発事故ミュージアムへ。
翌日、チェルノブイリ原発事故ミュージアムがあるというので訪れた。キエフ市内にある。
入場料は100円ちょっと。写真を取るのには追加200円ちょっと。
ただ、館内はロシア語とウクライナ語のようで、英語もほぼ無いので現地人がいないと悲劇。
たまたまウクライナの友達が一緒にまわってくれたので、ザックリは友人が説明してくれた。
そうか。
ウクライナの人達はフクシマのこと、日本のことを心配してくれているんだなと。
その後、館内を歩きまわると、チェルノブイリ事故についての資料や遺物などがある。
原発事故に従事した人や関係者の写真が大量に並んでいるのだけれど、
その写真の右下に核マークがついているものがある。
説明を受けると、それはどうやら「原発事故後に被曝が原因として亡くなった人」という証明シールのようだ。
なぜシールなのかというか、その対象者は今も増え続けているからということだった。
だから、亡くなった人が被曝者で、死因に被曝が理由であると判定されれば、
その写真に核マークシールを貼っていくということなのだろう。
(死因が本当に放射線なのかは疑問の余地があるが・・・。)
あと10年、20年の先にはそのミュージアムの写真には核マークが多くついているのかもしれない。
また、ミュージアム内には最新機器として、タッチパネルがあり、
そこから被曝した人達の情報を検索することができた。
アルファベット順で名前を検索できた。
その博物館の終盤には、なぜかやたらと日本語が目立ってきた・・・と思ったら、
そうか、チェルノブイリと日本の関係はフクシマじゃないんだ。
フクシマの前に、僕らはヒロシマ・ナガサキで繋がっていたんだ。
そこには広島の人達から、
チェルノブイリ事故被害者への応援メッセージや、千羽鶴などが贈られていた。
それもあってか、そのミュージアムの運営には日本から多大な協力が行われていたようだ。
まさか再び日本でフクシマが起こるとは一般人は誰も考えていなかっただろう・・・。
僕らはヒロシマ・ナガサキを経験したのに、フクシマも起こしてしまったんだなと。
あらためて考えさせられる場所であった。
こうして、僕がチェルノブイリ事故のその後の”場所”自体は巡ったことになる。
ゾーンへのツアー参加と、チェルノブイリミュージアム見学。
そんなわけで、僕はウクライナ滞在中に出逢った人達とチェルノブイリ事故その後について色々と話を伺った。
その多くは若者である。僕が逢って話をきいたのは22歳~35歳ぐらいまでの人達だった。
彼らは当事者というよりは当時子供だったり、生まれていなかったりと。
恐らく、10名ぐらいの人達とチェルノブイリを話題に話をした。
中にはウクライナの国営企業でエネルギーに関する仕事をしている人もいた。
その中で彼らに教えてもらった事実で驚いたことがある。
(僕が無知だっただけだが・・・。)
ウクライナは今でも原子力発電に依存していること。電力の50%ほど。
※参考記事:http://goo.gl/9UN2Y
これには驚いた。いや、しかしそれ以上に驚いたことがある。
ウクライナ人の多くが、それを呑み込んでいるのだ。
原発稼働に対して強い疑問を持たずに、「安価な電力供給のためには仕方ない」という意見が多かった。
人によっては、「飛行機事故と一緒だよ。利便性とリスク。どちらを取るのか。」という意見。
彼らの姿勢は理解できる部分もあるが、
『原発を辞める為の努力(新エネルギーを進めていこう。代替しよう。)』という意思が、
ほぼ感じることができなかったのが僕には最も衝撃的だった。
既に多くの人々にとってチェルノブイル事故は過去であり、歴史となっていた。
あれから25年、それも理解できなくはないが、なんとも言えないことだ。
フクシマの事故後も、特に人々の意思には変化が無いようだった。これにも驚いた。
(勿論、国民全員ではないだろうが、少なくとも僕が逢った10名は全員。)
そういえば、チェルノブイリのゾーンでも、ミュージアムでも、ウクライナ人の声からも、
何一つ、誰一人として、『原発管理者の責任追及』という意思が見えなかった気がする。
いかにもソレは天災だったかのような、自然がもたらしたかのような、
そう思わされているような気さえした。いわゆる「仕方ない」という印象をうけた。
しかし、その姿勢には違和感がある。十二分に責任追及はしたのだろうか?
何か裏で大きなチカラが動いているように思える。
(※ミュージアム資料は細かく言語読み込めてないので言及有無は不明ですが。)
今回、多くのことを考えさせられたウクライナ旅行。
日本は少なくとも脱原発を掲げて、再生エネルギーの技術革新に取り組み、
近い将来に原発を他発電手法等によって代替していく努力をしていく必要があると思う。
そうすれば、そこから世界中の国を変えていける可能性もあるのではないだろうか。
僕らはヒロシマ・ナガサキがあったにも関わらず、フクシマを起こしてしまったんだとあらためて考えさせられた。
人災だと言われているが、人間であるが故に完璧はありえない。
その0.0000001%のリスクが起きた後、それが人間に管理不能であれば進めるべきではない。
現代ライフスタイルを急激に変えることが難しいのも事実。
ウクライナの人々はそのリスクを取って、ライフスタイルの維持を選んだのだろう。
それも間違いなのかと言われると、非常に難しいところ。
ただ、原発事故が起きたら近隣諸国にも被害が及ぶ可能性があるのも考えると…。
僕ら日本人は何をどのように取るべきなのか?
今一度、自分自身でも考えてみたいと思う。
最後に、今回の震災によって直接被害が大きかった宮城や岩手は、
世界から忘れ去られる流れがあり、フクシマのみが世界中の人の注目を浴びている気がする。
(それも多くの海外の一般人はネガティブにフクシマに注目をしているように思われる。)
これについても日本政府はしっかりと考えて、対策を講じていかなくてはならないだろう。
いや、日本政府に頼っていても大きな期待はできないから、
僕ら日本人ひとりひとりが出来ることをしていく必要があるんだなと強く思った。
以上、ただの旅人の戯言現地レポートでした。
文章ガタガタですみません。
明日、ウクライナを離れて、トルコへ向かいます。
いざ中東へ。
※尚、僕は自己責任でチェルノブイリツアーに参加をしましたが、
この記事をみて参加をする人も自分自身で状況を確認し、自己責任で参加するようにしてください。
太田英基 @mohideki
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