僕は革命後のエジプトへと渡った。
ある程度、落ち着きを取り戻していた頃だと、現地に詳しい人から情報を貰っていたものの少し不安はあった。
到着した初日の夜、深夜に銃声音が鳴り響いた。
僕の泊まっていた宿は革命の中心地、タハリール広場から徒歩10分程の場所だった。
未だにデモを行うエジプト人たちと、それに反対をするエジプト人たちも。
当たり前のことだけれども、そこには色んな意見を持ったエジプト人達がいた。
そんなエジプトで一人の僕と同年代の日本人を紹介頂いた。それが内海さんでした。
内海さんはカイロ市内の待ち合わせ場所にスーツ姿で現れて、
お薦めのお店があると言って、失礼ながら決して綺麗とは呼べない路地裏の現地人が集うエジプト料理屋さんに案内してくれたりと、
「内海さんはしっかりと現地に根づこうとしている人なんだなぁ」というのが僕の第一印象でした。
今回はそんな内海さんにご回答を頂いたので、ご紹介させて頂きます。
内海貴啓
1985年生まれ。兵庫県宝塚市にて育つ。
幼少の時代から外国人のホームステイ受け入れや、
海外へのホームステイプログラムに参加して、異文化を肌で感じる。
小さい頃から人と違った選択を選ぶ傾向にあったが、
もっとオリジナルな自分になりたいと考え、高校1年次でアメリカに1年間交換留学。
大学ではさらに自分の視野を拡げるべく、
世界各国からの学生と議論する国際学生会議の運営に没頭。
その後は国内の大学院にて平和構築を専攻し、
卒業後、エジプトにて在エジプト日本国大使館にて国際協力に従事し、現在に至る。
現在は日本の出先機関である在エジプト日本国大使館にて、
対エジプトODA(政府開発援助)の一部である
草の根・人間の安全保障無償資金協力の調整業務を担当しています。
難しく聞こえますが、エジプトで活動しているローカル・国際NGO(非政府組織)を通じて、
貧困層のニーズに合致した支援プロジェクトの調整を行っています。
例えば、
農村部の公立学校で机が足りず、児童が床に座らざるを得ない状況を改善するために学校に椅子を供与したり、
無医村の村落に移動式で診療ができる医療車両を供与したり、
不衛生な水により病気が蔓延している農村部に浄化施設を建設したりと、
人間の生活に影響を与える問題を改善するための多岐にわたる支援を行っています。
プロジェクトの形成に当たって、カウンターパートであるNGOとの度重なる協議は勿論、
現場視察に行って村人に聞き取り調査をするのですが、
どういった支援が本当に求められていて、いかなるアプローチが効果的で、
多くの人を対象にできるのか、に着目して調べます。
このような調査を基に、日本人の代表として、現場に行き、日本の税金からなるODA予算を最大限有効に活かせるよう、現地のニーズに対応させながら調整することは非常にやりがいのある仕事です。
2011年1月25日にはエジプトでも、アラブの春が起こり、エジプトの情勢は一変しました。
仕事がなく、結婚の条件である家と収入が確保できない若者が行き場のない不満が
カイロの中心・タハリール広場で、ひとつにまとまりムバラク政権を打倒する事態となり、
エジプトの高い失業率への改善策が急務になりました。
そこで、本年は失業者を対象に仕事を得るのに必要なスキルを身につけられる職業訓練などの人材育成事業を多く実施しようとしております。
とりわけ、草の根無償は、他のODAの援助スキームの中で、
直接現地の人々と触れ合いながら援助を実施する「顔の見える援助」であり、
最も現地の人のニーズに素早く応えることができる「足の速い支援」でもあるので、
その側面をできるだけ活かして迅速に喫緊の課題に対応する援助を形作ろうと奮闘しています。
このように援助を仕事にしているのですが、私は援助の仕事を天職だと思っています。
それは、長い間時間を掛けて作り上げた自分の案件が見事完成して陽の目を見て、
現地の人みんなから「ありがとう!」と言われると、たまらなく嬉しくなるからです。
目の前の人のお手伝いができる、その実感があるから援助の仕事はやめられないですね。
私が海外に出ることを決意したのは、
大学院在学中、民間企業への就職活動をしていた時に、
「どうすれば自分が一番イキイキできるか」を自問自答している頃でした。
民間企業で海外関係の仕事をするという選択肢もありましたが、
自分自身が全身全霊を投じられる仕事がしたい。
それはなんだと考えれば、
これまでずっと興味を持って携わってきた中東和平や開発関係だと判断し、
その関連の仕事であれば何でもいいからしたいという気持ちで、根気よくそうした仕事をネットで探しました。
猪突猛進タイプなので諦めずに願い続けて、運よく今の職場に行き着きました。
もともと海外志向でした。
ただ、どうすれば海外で働けるようになるのか正直わからなかったので非常に悩みましたが、
「とりあえず飛び込んでしまえんばなんとかなる!」と信じ、
大学院の時代に一年間休学してイスラエル・パレスチナにインターンをしに行きました。
はじめの半年のイスラエルでのインターン先は
事前にメールでやり取りをして受け入れが決まっていました。
ですが、その後のパレスチナでは何も当てがなかったので、
興味のある国連機関や国際NGOに片っ端から「貴機関の活動についてインタビューさせてください」とメールを送り、なかば履歴書持参で門を叩いていきました。
その頃、パレスチナでは微妙な情勢の為、
外国人インターンを受け入れている国際機関や国際NGOは当時多くはなく、
募集すらしていなかったので、受け入れ先探しは難しかったです。
こうした地道な活動が功を奏して、国際NGOに受け入れてもらうことになりました。
このイスラエル・パレスチナ留学で得た経験が評価され、
今の職への足がかりになったので、飛び込んでみて正解でした。
実は私はエジプトで新卒社会人になったので、
日本のビジネスマナーがあまり身についていないかもしれません。
経験上言えることは、
時間感覚とイスラム教に依拠した慣行が日本とエジプトでは大きく違うと思います。
時間感覚に関しては、日本人はかなり正確ですが、エジプトの場合、かなり緩いと思います。
何かを依頼するときにはある程度、遅れる事を見越して、
余裕を持ってスケジューリングするようにしないといけません。
イスラム教に依拠した慣行としては、特にラマダンがあります。
イスラム教徒は年に一度、一カ月間、日の出から日没まで断食するため、
日中活力がなくなり、経済も著しく停滞します。
この月は業務時間を短縮する職場が多くなり、仕事が思うように進まなくなります。
エジプト人の口癖で、「インシャアッラー」という言葉があるのですが、
これは「神のご意思のままに」という意味で、未来のことを話すときにこれを使います。
例えば、タクシーの中で右に曲がってくださいと言った時でさえも、
「インシャアッラー」と言われてしまう時があり、本当に曲がってくれるか不安になる時があります。
この言葉を多用する習慣があることから分かるように、
日本のようにはっきり、きっちりと約束をする習慣はあまりないですね。
一番印象的なのは予想外の情勢の変化でしょうか。
エジプトでは2011年1月25日から革命が起こり、
それ以前の穏やかな情勢とは一変して、治安が悪化しました。
革命がはじまった当時は、圧倒的な数の市民が街に繰り出し、
市民対政府(警察)という図式で激しく衝突が起こりました。
警察署が焼かれ、治安を維持するはずの警察が逃げざるをえない事態になり、
無法者や脱獄囚が小売店や民家に火事場泥棒の具合で襲撃する事件が相次ぎ、
自分たちの身は自分たちで守らなければならない危険な状況になりました。
そんな非常事態では、通常業務はもちろんできず、何が起こるか予想不可能な状態で、
しばらくは、職場の床で寝袋を敷いて寝る缶詰生活をしていました。
そうした状況なので外には自由に出られず、テレビを見て情勢を見守る他なかったです。
安全な場所に極力いたとはいえ、銃声鳴り響く時もあり、かなり不安でしたが、幸い身の危険はなかったです。
結局、情勢の悪化を懸念して、革命開始から一週間経った頃、日本に一時退避しましたが、
安全だと思われていたエジプトで、そうした不測の事態が起こったのは今でも驚きです。
油断は禁物ですね。
不測の事態は常に起こりえることを頭の片隅に置いておいて、
次にそういう事態になった時は、もっとうまく対応したいですね。
開発援助、平和構築を仕事にやっていきたいと思って、この分野に飛び込んでいるので、
このままの方向で進んでいきたいです。
特に紛争や政変のある国で、
援助をどのように、またどういう立場で行っていくことが自分にあっているか考える上で、
日本政府の支援の現場部隊として、調整業務に携わった現職の経験とは違ったところで今後も開発援助に携わっていきたいと考えています。
目の前の人に手を差し伸べられる距離感で仕事をしたいのか、
それより多くの人を助ける政策的な仕事をしていきたいのか、
これからいろんな場所で経験を積みながら考えていきたいです。
今後も大いに海外を舞台にしていくことになるでしょう。
私の場合、海外志向が始まったのは自分を変えたいという衝動、
もっとオリジナルになりたいという気持ちからだと思います。
自分を磨くのに、一番手っ取り早い方法がサバイバルをすることでした。
海外に行けば、英語ができるできない関係なく、異文化の中でサバイバルすることになります。
新しいものや知識や文化だけでなく、面白い人たちと出逢うことで、
そのサバイバルが自分に気づきを与えてくれるのだと思います。
新しい自分を見つける場、その一つが海外ではないでしょうか。
いつかそのうちではなく、思い立ったら飛び込んでみましょう。
以上、内海さんのご回答となります。
内海さんは海外に飛び込み、自分自身のフィールドを切り拓いてきました。
そして、今後について考える時の判断軸として、
“目の前の人に手を差し伸べられる距離感で仕事をしたいのか、
それより多くの人を助ける政策的な仕事をしていきたいのか、
これからいろんな場所で経験を積みながら考えていきたいです。” とメッセージを頂きました。
これは自分が何をやりたいのかを考える時に、とても大切な判断軸になります。僕自身も常々考えています。
例えば、とある中学3年B組のA君がとある問題を抱えていた時に、
そのA君を最も身近な距離で支え、一緒に問題解決をしていくことができるのは担任の先生でしょう。
しかしながら、A君のような問題を抱える生徒は他のクラスにも存在しているものです。
ただ、担任の先生では他のクラスや、他の学年の生徒は管轄外になってしまう。
そうなると校長先生となって、学校全体のA君のような問題を抱える生徒をバックアップしていくことが考えられます。
ただし、校長先生はより多くの人に影響を持てますが、
A君個人に対するその影響の深さは担任の先生には敵いませんし、担任の先生抜きでは成立しません。
同様に、その校長先生では他の地域の学校にいるA君のような生徒をバックアップすることができません。
そうなると、果ては文科省までいきます。
文科省で日本にいるA君のような生徒全体に解決方法を提案することはできますが、
最早A君とは触れ合うことは難しい距離にいます。とても遠い場所にいることになります。
ただ、多くのA君に間接的ではありますが、影響を持てるのは文科省です。
そして、A君個人に対して最も深く関わり、直接的に支えることができるのは担任の先生です。
内海さんの
”目の前の人を対象とするのか、多くの人を対象にするのか”。
どちらも大切なことであり、どちらも必要不可欠です。
今後、どういうことをしていきたいのかのひとつの判断軸にしてみるのは良いかもしれません。
なかなかアラブ中東圏に飛び込む日本人は少ないです。
そんな中に飛び込み、今後も国際協力の世界に尽力していくことを決めた内海さんの今後に期待大です。
国際協力・開発を志す方々は、内海さんのようなバイタリティと行動力をもって現地に飛び込み、
リアルを体感し、日本と支援国の相互の未来を紡いでいってもらえたら・・・!
内海さんに出逢って僕はそう思いました。
内海さん、ご協力有難うございました!
太田英基
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